今、主は世間から隔離された山の中で暮らしている。
と言ってものんびり暮らしている訳でもなく、鍛錬をしたり書を読んだりしていた。
忍である俺は、三日に一回手紙や酒を持ってくるために主の元へと足を運ぶ。
もっとも、姿を現さないだけでいつもお側にいるのだけれど。
「旦那」
何か書を書いている主に向かって声をかける。
「佐助か」
「…手紙を、持ってきました」
ご苦労だった、と言って彼は分厚いそれを受け取った。
「さしでがましいかも知れないけど旦那、」
手を離さない俺に目の前の男は首をかしげた。
初めて出会ったときはほんの小さな子どもだったのに、今の彼はもうすっかり大人の顔になっている。
「もう旦那は十分戦ったよ」
「……」
「だから……」
「佐助、もういい」
主の声は、ついこのあいだまで子どもだと思っていた男とは全く違うと思った。
ぶるりと背中が震える。
「俺の行く道は崖なのだと言いたいのだろう」
だがその言葉とは裏腹に、彼はにやりと唇を上げていた。
「道があるから歩くのではないぞ、佐助」
その瞳には、一体何が映っているのだろうか。
きっと忍の目では見られないものが見えるのだろう。
見えないものは無いと思ったけれど、そんなことは無かった。
「ひたすら歩いていって、ふと振り返ったときにあるものが道なのだ」
主は変わったと思ったが、そのまっすぐな目だけは変わらない。
「それに、」
「?」
「俺は負け戦はしない」
怖いくらいの無邪気な笑みを浮かべて主は言った。
「だからついてこい、佐助」
「勿論ですよ」


誰が天下を取るかなどもはやどうでも良かった。俺にとっての世界はこの男だけだから。俺はアンタに死んで欲しくない、ただそれだけなのだ。


ゆれるあか