「弁丸さま〜」
屋敷内に女中の声が響き渡る。
まだ日も高い、稽古の時間なのだろう。
任務から戻ってきたばかりの佐助はまだ幼い主が、また茶の嗜みを嫌がって逃げ回っているのだろうと思った。
「弁丸さま!隠れてないでさっさと出てきてください!」
女中の声もどんどん荒くなっていく。
佐助は溜息をこぼして、木から飛び立った。
(まーた時間外労働かよ、勘弁してほしいよ。まったく)


佐助が真田の次男坊に仕えることになったのは最近のことだ。
当初、昌幸に仕えることになっていたのだが来てみれば次男坊―弁丸の世話。
子守りと言ってもいいだろう、そんな生活をして早二ヶ月が経とうとしている。
忍風情がまさか仕事にケチもつけられない。
こんなつもりじゃなかったんだけど、と里の仲間に愚痴をこぼしつつ此処で生活をしているのだ。
そして佐助は元来子どもに好かれる性分だったのか、昌幸の次男弁丸はすぐに佐助になついたのだった。


(またどうせいつもの場所だろう)
枝から枝へと素早く飛び移る。
僅かな物音だけが森の中に響いていた。
暫くすると、木の生えていない草むらが現れる。
必ず弁丸が嗜みから逃れようとして逃げる場所であった。
仕えて時間もたたない自分が初めて見つけたとき、彼は大きな瞳を更に見開いて驚いた。
『何故此処にいると分かったのだ!?』
『そりゃあ、弁丸様の忍ですから』
そんなことも遥か昔のことのように思える。
(これからずっと仕えていくっていうのにな)
もう嫌になりつつあるだなんて、言えなかった。
(まあ、頼まれた仕事はやるけどさ……これは頼まれてる範囲外だろ)
拗ねた子どもの世話など、仕事には入っていないはずだった。
仕えている時間と比例して仕事もどんどん増えていく。
きっと、時間が経つにつれてそれが当たり前となってしまうのだろう。
佐助は今日二回目の溜息をついた。


佐助の予想通り、弁丸は少しだけ広くなっている草むらにいた。
ただ、いつもと違うのは身体の大きさにそぐわない棒を両手に持っていることだろうか。
驚かさないようにそっと木から地面へ降り立つ。
物音は立てなかったはずだったのだが、弁丸ははっとした表情を浮かべながらこちらを向いた。
「さ、佐助!」
「まーたお茶の稽古から逃げてきたんですか?」
「ち……違う…そ、その……」
目がきょろきょろと泳いでいる。
罪悪感は感じているのだろう、しどろもどろになりながら弁丸は佐助をまっすぐ見つめた。
「茶は武士の嗜みと言うが、弁丸には分からぬのだ。そんな時間があるのなら、槍の稽古をしたい」
「弁丸様、茶の一つや二つ出来なくては槍の腕も上達しません。文武両道ですよ」
「うむ……だが、茶をやっても佐助のことを守れないではないか」
弁丸は大きくなったら佐助を守ってやるのだ、と得意気に言う主に佐助は言葉を失った。


「弁丸様をお守りするのが、佐助の仕事ですよ」
「それはまだ弁丸が未熟だからだろう!必ずや、お館様のようにお強くなって佐助を守る!そのためには槍の鍛練をもっともっとしなくてはいけないのだ」
「佐助の仕事を奪わないでください」
佐助はくすくすと笑いながら素振りをする弁丸を見つめる。
「弁丸様が大きくなって、佐助を守って下さるのを楽しみにしていますよ」
「まことか!」
一気に目を輝かせる弁丸に佐助はでも、と続ける。
「弁丸様は元服を済ませ、いつかは綺麗なお姫様と結婚なさるのです。そのときに茶の嗜みも出来なくては、恥ずかしいでしょう?」
「……」
弁丸は腕を組んで、うーん…と難しい顔をした。
「大丈夫だ、弁丸には佐助がおる」
「は?」
「佐助が弁丸の妻になる、だから大丈夫だ」
「な……っ!」
何が大丈夫なんだ、俺様は忍なんだとか、そもそも男だとか、佐助は色々な言葉が出てきたがそれを声に出して言うことが出来なかった。
「そんなこと言っている冗談があったら、おとなしく捕まっていてください」
自分は表情を変えてはいけない忍なのに、少しだけ頬が赤くなってしまっているのを認めたくなくて、佐助は小さな主の身体を抱き上げる。
「うお…!さ、佐助!」
「なんですか」
ばたばたと暴れるも、落ちたら痛い目にあうと直感で感じたのかすぐおとなしくなった弁丸が身体に似合わぬ大声を上げた。
「今のは冗談ではないぞ!」
「はいはい、ありがたく受け取っておきますよ」
抱きついてくる主を同じくらい強く抱きしめて、佐助は笑った。




僕の世界を抱きしめる
(僕の世界のすべてはきみなわけで)